昭和40年06月08日 朝の御理解
新鮮な瑞々しいというようなものを、値打ちさせるもの。瑞々しい新鮮なそういうこの、瑞々しいとか新鮮とかというものを、値打ちとするものは必ずすぐその瑞々しさというものがなくなる。新鮮さというものはそのいつまでも、新鮮さを保つ事が出来ないという、特別な性質というか物をもっておるわけです。ね。朝方だけはもう本当に水水しい。ね。例えんなら朝顔なんかがこう、朝露を含んでこの開いておる。
目が覚めるようにある。けれどもそれがもう日が照りだして昼頃になると、しぼんでしまうといったように。ね。新鮮な魚でも確かに、市場から上がってきた時は新鮮だったけれども、それが市場にそれが店頭に、そして時間が立つにしたがって、その新鮮度が落ちてくるように。ね。ところがです。やはり新鮮さとか、水水しさといったようなものを持って、値打ちとするものはやはりそういう値打ちのあるものでなからなければ、ならない。信心も同じ事。
信心も水水しい新鮮な。ね。いわゆる三代金光様が仰るように。「信心は日に日に新でございます」と。日に日に新なものがなかったらです。新鮮度が落ちた、いうなら信心はもう値打ちはないと。ただ金光様の信心をしていますというだけの信心ではです。新な値打ちはないと言う事。魚でいうならばもう、塩物か干物のようなものなんだ。生生しいものがない。生き生きとしたものがない。
新鮮度の落ちた魚が値打ちがないように、新鮮の落ちた野菜やら果物がもう、値打ちがないように、信心もここん所をいつも心掛けておかなければならない。日に日に新と。もう日に日にが新というよりも、まあ厳密にいうなら刻々が新と言った様なものがです。私の心の中にいつもなからなければならないと言う事。例えば確かにそう思うたんだ。お広前では確かにそう感じたんだ。そういう決心も付いたんだ。ところがその決心がです帰るに従ってだんだん薄くなっていく。そんな場合がありゃしませんか。
例えばならご造営ならご造営と言う事でです。ね。皆さんが、ご造営の費用になる献納金のことを先日、まあ私はまだ私はまだ、あれを見てもおりません。まあ正式なお届けも頂いておりません。その位に私はまあ無関心といえば無関心ですけれども。ね。私はその必要はないからそれを見る必要はないから。
まあ見たいとも思いません。あれはいうなら皆さんのその時の真心の残骸なのだからもう。そうでしょうが。ね。確かにね本気で一つ百万円をお供えさせて頂こうと、そん時嘘ではなかった。本当だった。ところがです、日にちが経つに従ってだんだん、90万でよかろう80万でよかろう50万でよかろう。終いにはもう椛目にいきゃ、苦労どんせんならんけんちていうてから、とうとう初一念を貫抜ききらずに、お終いになっていくような人もあるかもしれん。ね
委員長が申しておりました。もう本当に、内輪に、内輪に出しておる人もあるかと思われるような人もある。けれどもこれは少しオーバーじゃなかろうかというのもあるという。それはオーバーじゃないです。確かにそん時生き生きした生生しい心でです。どうでもおかげを頂きたいという念願を持っておったけれども、時間が立つに従ってそれが。小さくなって行った、しおれていった、枯れていったというような事になったんではです。どういう事になるでしょうか。ご造営ができる出来んではなしです。
それでは皆さんの信心がです、いわば値打ちのない物になってくるでしょうが。値打ちのある信心をさせてもらわなければいけません。本当にそれで力を受けなければなりません。あの時、お徳を受けたんだろうかというような、おかげを頂くために、初一念を貫く為に、私共はどうしても水水しい日に日に新な信心が必要なんです。
まあ、朝参り的な信心は、なんとはなしに水水しさを感じますですね。朝眠いのを起きて来なければなりませんから。けれどもその眠いならですたい、疲れに疲れてからです朝の御祈念に参っておるばってん。夜の御祈念に参っているような、もううとうとしたごたる風な朝の御祈念だったらどうでしょう。もう朝から第一眠うして応えん。朝からお昼までぐうぐうちいうてから、いびきをかいておるという信心だったらどうでしょう。朝参りの値打ちはないじゃない。
これはお参りとか形じゃありません。ね。日に日に新な信心。例えば確かに朝参りでもさせて頂こうという、心が生き生きとした新な心なのです。ね。同じ時間をです。ね。費やすなら朝の内が良い。神様、いやそれはいいと。も、そういうわけなんです。どうでも、お互いの心の中に生き生きとした、新な心がいよいよ水水しゅう、、かげを頂いて行く為に、人間と言うものはです。一つそのことをです水水しゅう生き生きと、例えばです。ね。注意を受けた。「はあ、それどころじゃない」。そん時は確かに思うた。
けれども翌日には、もうその思いは薄くなって、また注意を受けなければならなくなってくるでしょうが。ね。刺激を受けたときだけはです、さっと水揚げをする。草花のようなものじゃ。水揚げが悪くなったら根元を叩いてから。ね。叩いたり焼いたりしてから水をつけると、水をそっと上げるようなもんなのです。 叩かれた時だけ、ほんにそうだと水水しいものを、ほっとこう、吸い上げるようだけれどもです。もうあくる日までは、もてないと言う事。
そこで私達がですいつも新な信心を求めてです、求めに求めぬかせて頂いてどうすれば新な信心ができるだろうかと。勿論私は初一念を貫くという事。物事を様々な願いというものをです。どうでもこうでもおかげを受けなければならんという、念願に燃える事。一心発起する事その事にね。そういう一心発起をさせて頂いておるけれどもですそれがややもすると緩んでくる。そこでお互いが工夫をしなければならんというわけではないけれども、信心はそこに焦点を置くのが本当なんだからね。今日は愈々そこんところへ私は焦点を置かなければならないと言うのはね。十何年前によく頂いた御理解。
お米を買いにいった。確かに一斗買うてきたけれども、帰ってあけてみたところが八升しかなかった。おかしいな米屋が計り違えたじゃろうか。なんても思わずにですまずこれは、途中でどこでかこぼれた。どこでかもったに違いないとその、米の袋を調べてみろと言う事であると言う事。はぁ此処に、こげな穴が開いているもん。こっからずっともれよったったたい。と分かる。そこにですふせが出切る。ふせとはふせに通じると仰っておる。あの時分に。
分かりますか仏教的にあれは御布施と申しますでしょうね。不思議なんです私共の心がですね。不思議ですねやはり子供が見たとき、自分の命と思われるような、大事なものがですね。自分から離れていく時にです、確かにそこにふせがあたるようなおかげが頂けれることだけは間違いないです。その時は惜しげ悪しげ無しにさっさと修行させてもらわにゃあ。ね。そっから生き生きしたものが生まれてくるから不思議なんです。
何遍にもお供えすっとじゃから、まちょこっとばっかりづつ、何遍もしよるけん怖気の付くとたい。何かそこにふっと感じるような事があったらです。信心してどうしてこのような事が起こってくるであろうかと。これはあれが原因あれと言わずにです、自分自身の心の中に原因を探せと言う事よ。子供が悪いとじゃない。家内が悪いとじゃない。主人じゃない。使用人じゃない。自分自身の心なのだ。心の中の破れなのだ。ね。
その破れがです一つ一つ伏せによって伏せられていく時、漏らんですむおかげが受けられる。私共はそういう意味で日々ですね。様々な事に出会います痛い痒いの事からね。心配になる事からね。勿論その事心配になる事その事をです。おかげを受けなければならないのですけれもです。それを原因が遠いところにあるのではなくて、自分自身のお腹の中にあることを分からせてもろうてね。そこん所を伏せていく信心からです。私は今日伏せと言う事をお布施のことだけに申して、そのことだけじゃないのですよ。
お供えする事は自分の心の中の改まりをお供えをする事も同じ事。ほんな事こげん所がこげん破れとる。いつの間にか改まっておると思うておったその改まっている心がまた。元に戻っておる。本気でこれをお供えさせて頂かなきゃという、そこに改まりの心を出させて頂くと、そこからです。不思議に生きた物が生まれてくるですたい。生き生きした物が。私は思うのですけれどもね。
日に日に新な信心というのは、いつも自分と言うものを深く、見極めさせて頂いてです。ね。それが見極めねばならないことがあるのですから日々の中に。例えばです子供が言い分けをする。私はハッとしなければいけないと思うですね。いうとったばってん、言う事を聞かん。どうして言う事を聞かんかと。こんやつばっかりは、言い訳ばっかりしてから、というような事ではなくてです。
ハッとする位、これを思わにゃいけんです。言い訳をするはずだ。言う事聞かんはずだと。そういうようなものを自分の心のなかにです。破れたり避けたりしておるところを、伏せて行く所の、信心からです。私は日に日に新というようなものは生まれてくるんだと。しかもその新なものがです。ね。水水しいとか新鮮とかといったようなものがです。そういうものをもって値打ちとするもの。ね。
は必ずその水水しさと言うものはすぐ消える物だと言う事を知らなければなりません。その水水しさというものは持ち続けることは出来ないと言う事。私共の生き生きとした信心の心も同じ事。ですからその生き生きとした心をです。次にまた次の生き生きとしたものを頂く為の働きというものが、絶えずなされていかなければならない。それは私はいよいよ自分と言うものを本気で見極めて行くと言うことだと思うんです。例えばんなら、ゆりの花がです。ね。本当に夕べは清々しゅう開きかけておった。
ところが今日はもう開いてから少し、黄なみを帯びてきた。昼頃には赤みをおびてくるだろう。夕べからしおれてくるだろう。というようにですね。確かに今咲い心の中にある咲いている花は水水しい。ね。ですからもう次の上に準備されておかなければならないと言うこと。これでも枯れ落ちる頃にはです、次の花がまた開きかかっておらなければならないという事。絶えずこれがそれが私は日に日に新な信心じゃないかとこう思うのです。 おかげを頂かなければなりません 。